【日々の疑問】毎日が苦しくて、自殺を考えてしまいます
毎日のように、「今日で人生を終わりにしよう」と考えてしまいます。仕事にも意味が見出せない、人間関係もうまくゆかない……。自殺をするのはよくないことだとはわかっていますが、私が死んでも悲しむ人もいないと思いますし、ふとしたときに「もういいかな」と思ってしまいます。
41歳女性・派遣社員
編集部より
ご相談、ありがとうございます。毎日のように自殺することを考えてしまうのですね。とても心配ですし、何とか思いとどまっていただきたいと思います。
確かに人生には、自殺を考えてしまわざるを得ないほど、苦しい事態が長く訪れることもあります。ですが、どうぞ希望を失わないでください。高橋佳子先生の著書の中から、ご相談に関連すると思われる箇所を一部抜き出してご紹介いたします。
死を思い詰めるとき、思い出してほしい
高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約
償い切れないような失敗を犯してしまった。耐え難い身体的、精神的苦痛に苛(さいな)まれている。世間に顔向けできないような事件を起こしてしまった。リストラ、倒産、離婚、大切な人との離別、喪失体験……。
試練に見舞われて「こんなことなら死んだ方がまし」「生きているのに疲れた」と思い詰める時があります。
そして、その重荷に耐えられなくなって、自ら死を選ぶ人があります。
近年、自殺者の増加と後に残された家族の精神的な痛みが、社会的な問題として注目されています。すでに喧伝されていることとは言え、私たちの社会が抱えるこの現実に、何とも言葉に表し難い痛みを覚えずにはいられません。
自殺がよくないことだとわかっていても、追い詰められ、どこにも出口を見出せず、その闇と重圧の中で自ら命を絶つことによって逃れようとする衝動に駆られてしまう。人生で予想もしなかったような深いショックや絶望に見舞われたとき、そうした想いにとらわれる可能性を、誰もが抱いています。自殺しか、道が残されていないと追い詰められてしまう苦しみと絶望——。そうした苦悩に呑み込まれざるを得ない私たち人間の弱さと悲しさを受けとめたうえで、私たちは自殺という痛みに向き合ってゆく必要があると思うのです。
自らの死を思い詰める——。そんな時を誰もが人生の中で1度や2度は経験したことがあるでしょう。そのようなとき、どうか、あなた自身が使命を抱いた大切な存在であることを思い出してください。そして、あなたのことを大切に思う人がいることを思い出してください。あなたが死んだら、どれだけあなたに関わりのある人たちが悲しむことになるか、想像してみていただきたいのです。そして、この苦しみをわかち合ってくれる人などいないと感じ、孤独だと思っていても、これまでの人生の中で、あなたに優しくしてくれた人、愛してくれた人のことを1人でも思い出してみてください。すでに他界された方でもよいのです。その人たちとのつながりを思い出してほしい——。
いかなる苦しみも痛みも、必ず癒やし救う力が世界に、あなたの中にはたらいて、今もあなたを支えていることを信じていただきたいのです。
さらに、ここでお伝えしたいこと。それは「この世は忍土(にんど)である」ということです。「忍土」とは、仏教用語で「サハー」(シャバ)。忍という字の通り、心の上に刃が置かれている状態、つまり、痛みや苦しみに満ちている世界ということです。
私たちは誰もがその人生を母親の胎内で圧倒的に守られて始めます。そして愛情を注がれて育った人なら、多くを満たされて幼児期を送ります。それは、誰の中にも、その心の根底にごく自然に、この世は自分の想いが満たされる、いわば天国のごとき場所であるという思い込みが刻まれてしまうことを意味しています。それゆえに、現実に対して天国であることを求めてしまう私たちがあります。しかし、現実にはこの世・現象界は忍土です。
私はこれまで様々な場で、「崩壊の定(さだめ)」と「不随の定」という2つの定が存在しているとお話ししてきました。すべてのものは滅びてゆくという「崩壊の定」。そして、現象界は自分の思い通りにはならないという「不随の定」の2つの摂理です。
肉体を抱く私たちの命は有限です。生まれたなら、必ず誰もが死んでゆかなければなりません。生身の身体は病にも罹(かか)り、けがをすることもあります。また事故にも遭遇するでしょう。この世は生老病死という四苦が支配しています。
人間関係もこの「崩壊の定」の嵐に見舞われます。結婚当初、お互いを思い合っていた夫婦も、年月が経つ中で、愛情が冷めたり、関係が捩(ねじ)れたり、マンネリに陥ったりします。友情もささやかな不理解などから壊れてゆく。また、立てた当初は熱かった志も、次第に忘れ去られ、あきらめに支配されたりする。志の残骸がここそこに散らばっているのが現実です。さらに、愛しい人とも別れなければならない愛別離苦が存在します。
そして、無数の人々が関わり合って生きているこの世では、願望や期待を誰もが実現できるわけではありません。社長の椅子は1つしかなく、その椅子に座りたくても、願った人が皆座ることはできないでしょう。自分の思い通りに事は運ばないのです。しかし、無意識のうちにもこの世に天国を求めてしまう人間は、どうしても自分の思い通りに事が運ぶことを求めてしまう。そこに苦しみが生じるわけです。
まして、1人ひとりの人間は未熟な存在です。そのつもりがなくても、他人を傷つけたり、不理解が生じてしまうわけです。
自分が苦しみや悲しみでいっぱいのとき、人はどうしても他の人々の苦しみや悲しみに目を開くことができなくなってしまいます。しかし、そのときこそ、周囲の現実に目を開いてよく見ていただきたいと思います。
この世界には、時間が欲しくても、生きる時間が限られてしまった人もたくさんいるという現実。死を目前にして、刻々と落ちてゆく砂時計の砂の1粒1粒をいとおしむようにして生きている人々がいるという現実に目を開いていただきたいのです。いたいけな子どもを残して死んでゆかなければならない母親がいる。従業員たちやその家族の明日を守ってあげたいと思っても、その責任を果たす時間が許されていない経営者がいる——。そうした現実に目が開かれていったとき、決して自分の力で「生きている」のではなく、何か大きな力によって「生かされている」現実が心に沁みてくるのではないでしょうか。そのとき、「苦しくても生きなければならないのか」という問いに対する答えが自ずから示されるのではないかと思うのです。