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【日々の疑問】因果応報や先祖の祟りってあるのですか?

最近、体調が良くなく、さらに仕事も不調で気分が落ち込みがちです。そんなとき、インターネットのある記事に、「先祖供養が十分じゃないと、身体にも影響が出る」とか、「これまでやってきたことの因果応報」というものがあり、不安になってしまいました。「先祖の祟り」や「因果応報」ってあるのでしょうか?

42歳男性・会社員

編集部より
ご質問、ありがとうございます。心身の調子を崩されているときに、仕事でも困難があるとのこと、大変なご苦労だと察します。そうしたときには、ネガティブな情報を自分に引き寄せてしまい、ますます不安になってしまうということもよくわかります。
「親の因果が子に報う」ということわざがあるように、日本では、突然の不幸や心身の不調に見舞われたとき、何らかの「因果応報」「報い」だと考える風習がありました。
それに対して、高橋佳子先生は、「因果応報」ということが本当は何を意味しているのか、その真意を説かれています。GLA会員に毎月配布されている月刊『G.』の高橋先生の連載の中から、ご質問に関連すると思われる箇所を一部抜き出して抜粋いたします。

「因果応報」の本当の意味(原題:「原因と結果の法則Ⅳ」―「因果応報の真意」)

高橋佳子先生
「魂の学序説97」(月刊『G.』2017年1月号所収)より
一部抜粋・要約

わが国では、「因果応報」という考え方が、古くからよく知られています。

「因果応報」とは、元は仏教の言葉で、端的に言えば、「善因善果、悪因悪果」ということです。よい原因はよい結果を導き、悪い原因は悪い結果を導く。よい行いはよい果報をもたらし、悪い行いは悪い果報をもたらす――。

あらゆることには「作用反作用の法則」がはたらいていて、これもまた、「原因と結果の法則」の1つです。「悪しき心で関われば、悪しき反作用が自らに返ってくる」という考え方は、よく知られたものでしょう。

こうした「原因と結果の法則」の捉え方は、仏教の伝統を持つわが国の人々には、実になじみ深いものと言えるかもしれません。

しかし、「善因善果、悪因悪果」の善悪をどう捉えるか、何を「結果」として何を「原因」と受けとめるかは、慎重にしなければなりません。

特に、人生と人生の結びつきについては、改めて考えてみる必要があります。

織りなされる人生の中で、人はしばしば、自分の意志ではどうすることもできない現実にぶつかります。

自分の意図を超えて、不吉なこと、自分にとって都合の悪いこと、思うにままならない試練がやってきたとき、あるいはどうしても受けとめがたいことが目の前に現れたとき、そこに、人間の意図を超えた力を感じることはめずらしいことではありません。

そんなとき、巷の宗教や一部の仏教では、「前世の因縁によるものだ」とか、「前世の因果応報だ」、あるいは本人の過去世ということではなくても、「先祖の因縁のせいだ」などと言うことがあります。

「前世の因縁」「前世の因果応報」という言葉を耳にしたとき、多くの人々は、こんなことを思ってきたのではないでしょうか。

「自分は、きっと前世に悪行をなした。それが巡り巡って、今、こんな目に遭っている。罰が当たって、こんな厳しい現実を経験しているのかもしれない」

実際、巷に存在する多くの宗教が日々に起こる不幸を、そういう形で受けとめさせ、解釈させてしまっているように思います。中には、恐怖心を引き出し、依存させるものもあります。 歴史的に見ても、インドのカースト(身分制度)の考え方などには、まさにこうした前世と現世の関係が表れており、わが国や諸外国において、かつて「業病」という言い方が残っていたことも、同様の考え方が反映されたものと言えます。

しかし、そうした捉え方は、「魂の学」のまなざしから見れば、過ちであり、未熟なものにほかなりません。

身分制度については、言うまでもないでしょう。人間には生まれながらの違いはあっても、そこに価値の軽重をつけることはできません。身分制度であっても、人種間の差別であっても、そうした制度や考え方が生まれてしまうのは、社会の成熟の問題であり、人間観の問題であって、一刻も早く是正され、解決されるべきものです。

また、病には、いかなるものであっても身体的な原因が存在しています。病は、その原因によって生じるものです。難病に指定されるものがあるように、治療や治癒が困難な病も現実には存在しています。しかし、「業病」などというものは存在しないのです。

自分たちにその原因が見えない、それが生じた理由を明らかにできないからと言って、それを前世や先祖のせいにするという姿勢は、避けなければなりません。まして、怖れや依存心を引き出し、さらに供養料を得るためにそれを使うとしたら、言語道断です。

もし、過去世とのつながりがあるならば、それは、決して人生を脅かすものではないはずです。そのつながりは、現世をよりよく、より深く生きるためのもの――。そして、そのつながりは、何よりも本人自身が感じるべきものです。

だからこそ、私たちは、「試練は呼びかけ」という姿勢で、目の前にある現実に向かおうとするのです。それを受けとめるのは、自分自身です。いかなる試練であろうと、私たちの人生にとって無意味なものはありません。そして、無意味でないとは、これからの未来を生きるための手がかりになるということです。

「因果応報」の真意――。「善因善果、悪因悪果」は、何かを罰するためにあるのではありません。よい生き方がよい未来を導く――。そのよい生き方を促すものにほかなりません。