時の羅針盤・192
時の羅針盤・192
今を生きる
高橋佳子
人生のリズム
3月は、年度の締めくくりの月であり、もう1つの1年のリズムの節目のときです。今月は、それにちなんで、人生のリズムが呼びかけていることを、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
今年の「新年の集い」では、人生の3つのリズムのことをお話しさせていただきました。
1日1日、毎日、日常のリズム。春夏秋冬という四季が奏でる1年のリズム。そして、永遠の生命としての魂存在が、この世・現象界からあの世・実在界への往き来を繰り返しながら、人生全体の交代によって生み出すことになる転生のリズム──。
私たち人間は、どれほど忙しい日常を送っていても、誰もがその3つのリズムを背景に人生を営んでいるということです。
そして、そこでは触れることができませんでしたが、これまで「魂の学」(*1) で皆さんが学ばれてきた「10年法則」──10年という人生のリズムも、そこに加えることができます。
ものごとを本当に追求しようとしたとき、1つの形を結ぶのが10年という期間であるということ──。それは、仕事においても、その期間、そのリズムが1つ1つの成果を生み出してゆくとも言えるのです。また、人生を左右する岐路をつくり出す「グレートカオス 」(*2) が現れるのも、10年ぐらいの間隔であるとお伝えしました。
つまり、私たちの人生には、確かに10年というリズムが刻まれているのです。
日常生活の中で、私たちには、1日、1年、10年、そして人生全体に関わる転生のリズムの響きが届いているということです。
そして、私たちが自らの人生を全うしたいと願うなら、それらの響き、呼びかけを受けとめて、その響き、呼びかけに応えて生きてゆかなければならないということなのです。
今を生きる
では、人生のリズムの響き、呼びかけに応えて生きるとは、いかなることでしょうか。
私は、それこそが「今を生きる」ということだと思います。本当の意味で、今に集中して生きるということです。
日々、忙しく、目の前の要請に応えることが、今を生きることではありません。どんなに一生懸命に生きているつもりでも、それは、あわただしい刺激に反応するように生きているだけで、本当の意味で今を生きているとは言えません。
いつもと同じ考え、いつもと同じ関わりを繰り返しているなら、それも、自動的な回路を回しているだけで、今に集中しているとは言えないでしょう。
あるいはまた、明日を思い煩い、過去にこだわって生きているときも、私たちは今に集中することは困難になってしまいます。
拙著『自分を知る力』の第4章に登場する松山貴美子さんが「ああ、私には今日がなくて、昨日と明日しかなかったんだ」と気づかれたように、過去の恐れを未来に当てはめて、不安ばかりを募らせていたかつての生き方です。その自分を見破ることで、松山さんは、その不安の束縛を解き放って、まさに今を生きることができるようになっていったのです。
私たちが今に集中するということは、今に託されたすべての可能性を想うことができるということです。今、この瞬間を生きるということは、その瞬間にできる最善を尽くしているということでしょう。
その最善のしるしは、そこに響いている、重奏するリズムの響き、その呼びかけを受けとめ、それに応えようとするということなのです。
今が運んでくる呼びかけ。
今に秘められている可能性。
今が抱いている青写真 (*3) 。
それをしっかりと受けとめて応えようとするとき、今は、1日を超え、1年を超え、10年を超え、人生全体に響いてゆきます。今は、刹那に終わることなく、永遠とつながってゆく──。
今を生きることは、永遠を生きることなのです。
2020.02.29
〈編集部註〉
*1 魂の学
「魂の学」とは、見える次元と見えない次元を1つにつないで人間の生き方を求めてゆく理論と実践の体系です。物質的な次元を扱う科学を代表とする「現象の学」に対して、物質的な次元と、それを超える、見えない「心」と「魂」の次元も合わせて包括的に扱おうとするのが「魂の学」です。それは、私自身の人間の探究と多くの方々の人生の歩みから見出された法則であり、「魂・心・現実」に対する全体的なまなざしによって、人間を見つめ、あらゆるものごとに応えてゆくことを願うものです。
(ご著書『最高の人生のつくり方』50ページより引用)
*2 グレートカオス
10年に1度というような人生のターニングポイントで現れるカオスのこと。人生の大きな分岐をつくり、ときに人生全体の形を決めてしまう巨大なカオス。
(ご著書『最高の人生のつくり方』184ページより一部抜粋・要約)
*3 青写真
どんなものにも青写真がある──。何かを実現しようとするとき、私たちはまず、そこには本来あるべき姿──青写真があることを思い出さなければなりません。そしてそれは、あらゆる場合に、求めるべき解答があり、そこにアクセス可能であるということを意味しています。言葉を換えるなら、どんな事態にも最善の道が必ずあるということです。
(ご著書『魂主義という生き方』147〜150ページより一部抜粋・要約)